大河ドラマ「おんな城主直虎」の放送によって、女性でありながら城主を務めた井伊直虎に注目が集まっています。ですが、実は直虎以外にも、戦国時代には女性城主が何人も居たんですよ。

今回は井伊直虎以外の、戦国時代に城主として活躍した女性を5人ご紹介します。
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実は夫婦仲は悪かった!?立花山城主の立花誾千代


まずは1575年、わずか7歳で立花山城の城主となった立花誾千代です。ゲームでその名前をご存知な方もかなり多いのではないでしょうか。

誾千代が城主となった理由は、父親の立花道雪に男子が恵まれなかった事にありました。そのため道雪は、57歳の時に生まれた誾千代を自らの後継者とする事とします。この時道雪は主君にあたる大友宗麟から許可を貰った上で、誾千代に立花家の家督を継がせています。

誾千代は1581年、道雪と同じく大友家に使える高橋紹運の嫡男にあたる立花宗茂と結婚する事となり、立花家の家督を夫に譲っています。そして1586年、宗茂は秀吉の九州征伐で手柄を上げ、その功績によって筑後国柳川城主となりました。ただこの時、誾千代は立花山城から離れるのを嫌がったようで、激しく抵抗したという記録が残っています。

居城を柳川城に移した誾千代、宗茂夫婦ですが、二人の仲は悪かったと言われています。その後、誾千代は宗茂と別居して宮永という地に移り「宮永殿」と呼ばれるようになりました。また1600年の関ヶ原の戦いで加藤清正が柳川城に退却してきた宗茂に城を明け渡すように使者を送った時、宮永にいる誾千代の領地を通れば領民は怒り、武器を取って攻め取ってくると家臣に進言されたというエピソードも残されています。

つまり誾千代は領民に慕われる、徳高き女性だったのでしょう。西軍についた事で夫が改易された後、誾千代は加藤清正の領国である肥後に住んでいたようですが、1602年に34歳の若さで亡くなりました。宗茂はこの事に心を痛めたのか、以降は江戸幕府への忠勤に励み、1620年に柳川藩の大名として返り咲いています。

※参照:立花宗茂の関ヶ原の戦いでの動向は?弟や子孫についても解説

夫の仇討ちを果たした九州の女傑。鶴崎城主の妙林尼


続いてご紹介する女城主は、大友家の家臣、吉岡鑑興の妻であった妙林尼(みょうりんに)です。彼女の夫にあたる吉岡鑑興は、大友家の代表的な家臣である「大友三老」の1人である吉岡長増の長男に当たる人物です。しかし夫の鑑興は、1578年に島津家との間で勃発した「耳川の戦い」によって戦死。このため妙林尼は出家する事となりました。

1586年、九州統一を目指す島津家が大友家の領土へ侵攻してきます。この時、吉岡家の居城である鶴崎城の城主は鑑興の子供である統増が務めていたのですが、統増は主君である大友宗麟の傍に居たため、妙林尼は城主として城の指揮を取る事になりました。和睦を拒絶した妙林尼は城に残る農民に戦い方を教え、島津家の16回に渡る攻撃を退けたと言われています。

その後、食料が尽きたため妙林尼は城を明け渡します。この時、寄せての大将である野村文綱と酒を酌み交わしたというエピソードが残されているのですが、翌年に豊臣秀吉が九州へ上陸する時、薩摩へ撤退する事となった野村文綱らを酒でもてなします。
しかしその後、国元へ退却する島津家を追撃。文綱に傷を負わせ、63もの首をあげるという手柄を挙げました。その後の妙林尼の動向は分かっていませんが、夫の仇である島津家に一泡吹かせた彼女の生涯は、その死後も地元で今に至るまで語り継がれています。

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織田信長を裏切ったその末路は…?岩村城主のおつやの方


3人目に紹介するのは、東美濃(現在の岐阜県東部)にある岩村城の城主を努めたおつやの方です。

おつやの方は織田信長の叔母にあたる女性で、信長の祖父にあたる織田信定の娘として産まれました。その後、岩村城の城主である遠山景任の元に嫁ぎ、一時期同盟関係にあった信長と武田信玄の間を取り持ったと言われています。

しかし1572年、夫の景任が子供を持たないまま亡くなったため、おつやの方は信長の五男にあたる坊丸を養子にすると共に、岩村城の城主を一時期に努める事になりました。同じ年、信玄が上洛を開始すると、おつやの方は実家の織田家を裏切り武田家に寝返ってしまうのです。

その後、おつやの方は武田家の家臣である秋山虎繁と結婚します。しかし1575年、長篠の戦いで武田家が大敗し、信長の嫡男の信忠が3万軍を率いて岩村城へ攻め込んできます。おつやの方は夫の虎繁と共に捕らえられ、岐阜に送られ信長によって長良川の河原で逆さ磔にされました。その最後は、信長に対する呪いの言葉を発したと言われています。

井伊家に仇なす女城主!?曳馬城主のお田鶴の方


今川家の家臣である飯尾連竜の妻で、後に浜松城と呼ばれる曳馬城(ひきまじょう)の女城主として知られるのがお田鶴の方です。

お田鶴の方の父親は今川家の家臣、鵜殿長持(うどのながもち)で、成長した後は同じ今川家の家臣である飯尾連竜に嫁ぎました。桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られ、今川家が弱体化すると、父の長持は徳川家康に攻められ討死する一方で、夫の連竜は今川家を見限り、家康に内応するようになります。

これに激怒した今川家の当主、氏真は1562年、連竜の居城である曳馬城に攻め込みます。この時、お田鶴の方は井伊直虎の曽祖父で、まだ幼い井伊直政の後見人の井伊直平を毒殺したと言われています。2年後の1564年には、井伊家を支える家臣である新野親矩や中野直由らの攻撃を受けますが、お田鶴の方と連竜はこれを撃退。新野と中野は共に戦死しました。連竜やお田鶴の方は、井伊家にとっては仇となる人物に当たると言ってもいいでしょう。

しかし1568年、連竜は氏真の呼び出しで駿府城を訪れ、そこで今川家の家臣によって殺されてしまいます。なのでお田鶴の方は曳馬城の女城主となり、武田家を頼ろうとしました。しかし遠江へ進行した家康によって曳馬城を攻められてしまい、お田鶴の方は侍女とともに薙刀を振るって果敢に戦いましたが、二百余りの城兵とともに討ち死にされました。

その後、家康の正室にあたる築山殿がお田鶴の方を憐れみ、100本以上の椿の花を植えたと言われています。この事から、お田鶴の方は死後「椿姫」と呼ばれるようになりました。

※参照:井伊直平ってどんな人?息子や墓所についても解説!

「のぼうの城」で有名な姫のその後は?忍城主の甲斐姫


最後にご紹介するのは、忍城城主として豊臣秀吉の攻撃を防いだ甲斐姫です。映画「のぼうの城」で女優の榮倉奈々さんが演じた役として覚えている方もいるかもしれませんね。

『東国無双の美人』と評された甲斐姫は、忍城城主である成田氏長の娘として1572年に産まれました。甲斐姫の祖母にあたる妙印尼という女性は、71歳にして北条氏の攻撃から城を守った女城主として知られており、その影響からか戦の事や武術にも通じていたと言われています。

1590年に秀吉による小田原征伐が始まると、甲斐姫は城代となった成田長親らと共に、石田三成率いる豊臣勢から忍城を守り切りました。甲斐姫はこの戦いの中で、三宅高繁という武将を弓矢で討ち取ったと言われています。父親の氏長による「男だったら成田家を再興する武将になっただろうに」という評価に恥じない戦いぶりだったと言われています。

甲斐姫はその後、蒲生氏郷の元へ預けられますが、家臣の浜田将監、十左衛門兄弟が謀反を起こして継母など氏長の一族を殺害する出来事が発生しました。これを聞いた甲斐姫はわずか十数名の手勢を率い、浜田兄弟を討ち取ったと言われています。

甲斐姫の武勇伝を聞いた秀吉は彼女を側室にし、秀吉死後はその子秀頼の養育係を努めたという説が残されています。その一方で、こすいた甲斐姫に関する武勇伝は後世の創作であり、確実なのは秀吉の側室としてその最後まで付き従った事のみだという見方もあります。

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この記事のまとめ


今回は、戦国時代に活躍した女性城主を5人ご紹介しました。どの女性も家族と領地を守るために、知識と武器を振るったことが良くわかりますね。

ここでご紹介した女性以外にも、真田信之の妻で、居城である沼田城を義父の昌幸から守り抜いた稲姫や、今川家の当主4代を支え「女戦国大名」と呼ばれた寿桂尼なども、戦国時代に活躍した女性として有名です。こうした懸命に生きて家を守り、功績を残した女性たちは、現在でも多くの人に慕われ続けています。

※参照:今川義元の母、寿桂尼はどんな人?年表や何をしたのかを解説