%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_12_09_15_07 ※参照:西南戦争(Wikipedia)

明治時代前半にしばしば起こった不平士族の反乱。
その最大規模だった戦いが、西郷隆盛が起こした西南戦争です。
一体どんな戦いだったのでしょうか。

今回は西南戦争について簡単に解説すると共に、西郷以外の中心人物や戦いが行われた場所についてもご紹介します。

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西南戦争を簡単に解説!起こったきっかけは?


まずは西南戦争がどのような戦いだったのか、簡単に見ていきましょう。

西南戦争は1877年に、現在の熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県で起こった士族の反乱です。
明治維新の功労者である西郷隆盛を中心に、主に薩摩(鹿児島)出身の士族が起こしました。

戦いのきっかけを見ていきましょう。明治に入って近代化の道を歩み始めた日本では、維新の立役者ともなった士族(旧武士)の特権が政府によって次第に奪われていきました。また、1873年にはこうした士族から多くの支持を集めていた西郷隆盛が「明治6年の政変」によって敗れ、新政府の職を辞して下野している状況がありました。

その後、西郷は鹿児島に「私学校」を作り、新政府に不満を持つ藩士の統制と若者の教練を行いますが、この私学校の生徒が鹿児島の中で、次第に勢力を持つようになっていったのです。そんな中、中央政府が鹿児島の軍需工場に保管されていた武器弾薬を秘密裏に運び出すという事件が起きます。

私学校の生徒はこれに反発し、各地の弾薬庫を襲いました。さらに新政府が、西郷が不満を持つ士族をまとめて反乱を起こすことを恐れて、西郷を暗殺しようとしている事が発覚。こうして西南戦争が勃発しました。

戦力は薩軍(士族側)が3万だったのに対し、新政府軍は7万ほど。薩軍は熊本の鎮西鎮台を取り囲みますが、こうした情報を新政府側は早急に察知し、すぐに新型の武器を保有する兵力を送り込みます。開戦から7か月、官軍死者6403人、薩軍死者6765人にのぼる最大の士族反乱は政府軍の勝利に終わり、西郷隆盛の切腹によって西南戦争は終結する事となりました。

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西郷隆盛以外の西南戦争の中心人物は誰がいる?


西南戦争の中心人物と言えば、西郷隆盛の事が浮かびますよね。では、この戦争で西郷以外に活躍した人物には誰がいるのでしょうか。ここでは西南戦争の中心人物を5名解説します。

まず最初に紹介するのは、官軍の参軍(事実上の総大将)として新政府軍を指揮した山縣有朋です。当時の山縣は陸軍の軍政家として徴兵制や軍人勅諭の制定、参謀本部の設立に携わっていました。城山の戦いの際には、西郷に自決を薦める書状を送ったと言われています。

※参照:山県有朋の人物像について解説。妻や子孫の存在も気になる!

2番目に紹介するのは谷干城(たに たてき)です。土佐藩出身の谷干城は陸軍少将として熊本鎮台司令官を務めており、西南戦争では熊本城を52日間にわたり西郷軍から死守し、官軍の勝利に貢献します。戦後は陸軍士官学校の校長となりその後政治家に転身。薩長軍閥、自由民権派とも異なる保守中道的な立場で、土佐派の重鎮として活躍しました。



また、薩軍の中心人物についても見ていきましょう。

桐野利秋は薩摩藩の下級武士の家に生まれ、後に西郷に重用され、江戸城開城の際は西郷と勝海舟の会見に付き従ったと言われています。維新後は明治新政府の陸軍少将になりますが、政府から下野した西郷に従い、西南戦争では四番大隊・大隊長として奮戦しました。そして、城山の戦いで自決した西郷を見届けた後、敵軍に突入して銃弾を額に受けて戦死しました。

※参照:桐野利秋とは?西郷隆盛との関係は?妻や子供はいたの?

桐野と同じく、西郷の切腹を見届けた後に戦死した人物に村田新八がいます。年少の頃から西郷に従っており、寺田屋騒動の際には島津久光に関わりを疑われた西郷と共に流罪になった経験がある人物です。明治新政府では岩倉使節団に同行して各国を視察。帰国後は西郷の後を追って鹿児島に帰郷し、西南戦争では第2大隊大隊長として活躍しました。

※参照:村田新八とは?西郷隆盛との関係や西南戦争での動向について

また、城山で切腹をした西郷の介錯をしたのが、桐野利秋の従兄にあたる別府晋介です。戊辰戦争の参加経験もある別府晋介は明治天皇直属の御親兵に編入され、次いで近衛陸軍大尉に任命されました。西郷が征韓論を唱えた際は「韓国の制圧は容易である」と提唱した他、私学校の開設にも尽力したと言われています。西南戦争では連合大隊大隊長として参加、戦いの火蓋を切った事でも知られる人物です。

※参照:別府晋介ってどんな人?陸軍軍人や西南戦争における動向は?

西南戦争が行われた今の場所はどこなのか?


ところで、西南戦争は熊本、大分、宮崎、そして鹿児島といった様々な地域で行われた戦いの総称を指します。では、この戦いが行われた場所はどこにあるのでしょうか。

西南戦争が行われた場所を8つ、ご紹介します。


・熊本城(現在の熊本県熊本市)
熊本城とその近辺では西南戦争の緒戦が戦われました。はじめ、薩軍は熊本城を強襲して短期間に攻め落とす作戦でしたが、城は堅牢で装備も勝る艦軍の抵抗にあい、2月22日から4月14日までの長期にわたり城を囲みました。薩軍が包囲を解いたのちの「城東会戦」は熊本平野全域に及ぶ野戦で「関が原以来」とも言われます。薩軍は一部で優勢に戦いを勧めましたが、結局、後退を余儀なくされます。

・田原坂(たばるざか、現在の熊本県熊本市)
1877年の3月に行われた「田原坂の戦い」の舞台となった場所です。熊本城強襲策から転じて長期包囲戦を決めた薩軍が、南下してくる官軍を迎え撃ったこの戦いの期間は、およそ1ヶ月間に及びました。緒戦の中でも両軍多数の死者を出す激戦であると共に、戦争の方向性を決定づけた戦いです。ここで勝利した官軍が、以後の戦争を優位に進めていきます。

・人吉(現在の熊本県人吉市)
熊本城から撤退した薩軍が根拠地としたのが人吉です。当初、勢いのある薩軍が優勢に戦いを進めていましたが、人員・物資が不足し始めると次第に勢いがなくなり、官軍に追い詰められて行きます。人吉も危険と見た桐野らは西郷を宮崎に移し、そこを本営とします。
6月1日の早朝から本格的な「人吉攻防戦」が開始され官軍・薩軍ともに砲台を設置して砲撃戦となりますが、大砲の性能で劣る薩軍は劣勢に立ち、3日間の戦闘の末、人吉は官軍に占領されました。

・大口(現在の鹿児島県伊佐市)
人吉での攻防戦と並行して、薩軍はその近辺の大口方面にも展開していました。薩軍は圧倒的に不利な中でも奮戦しましたが、官軍は増援を投入して対抗します。人吉陥落後はそちらにあたっていた官軍の部隊も大口方面に投入され、物量で薩軍は圧倒されます。2か月間の大口攻防は薩軍の撤退で幕となりました。

・都城(みやこのじょう、現在の宮崎県都城市)
人吉と大口から撤退した薩軍は、官軍により鹿児島を追われた部隊と共に都城に集結し、この場所を防備することにしました。しかし7月24日、官軍の総攻撃を受けて都城は占領されました。この戦いの敗戦により薩軍の逆転勝利は絶望的となり、官軍に投降する者も相次ぐようになりました。薩軍は宮崎に活路を見出そうとしますが、その宮崎も7月末には陥落し北へ向かって敗走します。

・和田峠(現在の宮崎県延岡市)
宮崎陥落の後、薩軍は本営を延岡・熊田に移します。これを殲滅しようと官軍が周辺を包囲しました。両軍が和田峠で交戦、ここで開戦以来、初めて西郷が指揮を執りました。しかし、激戦もわずか5時間で薩軍の敗北となり、熊田へ退却します。

・可愛岳(えのだけ、宮崎県延岡市)
和田峠で敗れた西郷と薩軍は永井村に引きますが、そこも官軍に包囲されてしまいます。ここに及んで西郷は「解軍」、すなわち“降伏する者は降伏をし、最後まで戦うという者は戦って死のう”と支持します。多くの者が降伏を選び、残ったのは1,000名の精鋭のみでした。残った者たちは一時、決戦を考えましたが、一度鹿児島へ戻り再起を図ろうということになりこの可愛岳を突破することとしました。精鋭300~500名が可愛岳を上り、官軍の警備が手薄な北側から下山、攻撃を加えて突破に成功します。

・城山(現在の鹿児島県鹿児島市)
西南戦争の最後の戦いが行われた場所です。鹿児島に戻った薩軍は鹿児島市を制圧し、城山に布陣しました。しかしすぐに官軍の反撃にあい、逆に城山を包囲されてしまいます。
9月24日明け方、官軍の攻撃により始まった戦いは午前9時ごろには官軍の勝利で幕を下ろします。西郷は銃弾を受け負傷した後切腹、他の多くの将兵は進撃を続けある者は戦死、またある者は自刃しました。

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この記事のまとめ


このページでは西南戦争について簡単に開設すると共に、その中心人物や戦いが行われた場所についても解説しました。

この戦いによって士族の反乱は終結し、かわりに自由民権運動とこれに反発する政府の間で言論による戦いが行われるようになります。また、官軍の兵士の多くは農民出身者であり、この事から士族と農民の間の強さは変わらないという事が認識され、徴兵制がより推し進められるようになりました。

なお、以下の記事では西郷と同様に不平士族に担がれ反乱を起こした江藤新平について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:江藤新平の略歴や評価を解説、子供や子孫はいるの?