%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_12_23_11_21 倒幕の起爆剤になったと言われる薩長同盟
しかし、この同盟を結ぶまでの道は決して簡単ではありませんでした。

犬猿の仲だった両藩はどうして、またどうやって同盟を結ぶに至ったのか。

中心人物の果たした役割とその後の歴史に与えた影響を含め、簡単に説明していきます。

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薩長同盟とは?どのような出来事だったのかを簡単に解説


薩長同盟とはどのような出来事だったのでしょうか?
その概略を簡単にご紹介します。

薩長同盟は1866年、当時険悪だった薩摩藩と長州藩の間で結ばれた同盟です。
その内容を簡単に解説すると、以下の6か条になります。

・長州藩と幕府が戦う場合、薩摩藩は援軍を出す
・長州藩が不利になる場合、薩摩藩は朝廷に和睦を働きかける
・長州藩が幕府に勝利したら、薩摩藩は朝廷に長州藩の無罪を訴える
・長州藩が不利になる場合でも、半年〜1年は持ちこたえるよう努力する
・幕府が会津藩、桑名藩と共に戦う姿勢を示すなら、薩摩藩も幕府と戦う
・長州藩の名誉回復がなされたら、日本の為に共に力を尽くす


この6か条を見て分かるのは、この同盟は幕府を倒そうとするものではなく、あくまで長州藩の危機を救うものだった色合いが強かった事です。当時、長州藩は1863年の八月十八日の政変で京都を追われ、翌年の禁門の変で薩摩藩と会津藩に敗北。続く第一次長州征伐で幕府に敗北するなど、危機的な状況が続いていました。

一方の薩摩藩は、最高権力者の島津久光が幕政改革への情熱を見せていたのですが、思った通りに改革が進まない事に苛立っていました。同時に諸外国の圧力の前に打開策を見いだせない幕府への苛立ちもあり、倒幕へと考えが変わっていった背景がありました。

こうした思惑の一致があって、元々対立関係にあった薩摩藩と長州藩の間で薩長同盟が結ばれます。この同盟によって、当時孤立無援だった長州藩は薩摩藩から武器の提供を受け、同年の第二次長州征伐に勝つ事が出来たのです。

※参照:長州藩の場所や家紋について解説。倒幕を行った理由とは?

薩長同盟の中心人物をわかりやすく解説


この薩長同盟の成立には、どのような人間が関わっていたのでしょうか。
その中心人物について見ていきましょう。

犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩。この2つの藩を結びつけることが大切だと最初に判断したのは外部の人間でした。下関戦争の後、高杉晋作と会談したイギリスの駐日公使ハリー・パークスは薩摩藩や土佐藩にも赴いており、西日本の有力な藩を結びつけています。また、土佐藩を脱藩した中岡慎太郎も薩長の同盟に向けて動き出しており、これに坂本龍馬も合流します。

禁門の変で朝敵とされた長州藩は、幕府によって武器の購入を禁じられてしまいました。しかし更なる長州征伐が囁かれている中、長州藩としては絶対に武器が欲しいところ。そこに目をつけたのが坂本龍馬です。龍馬は、薩摩藩が武器を購入して長州藩に横流しすることを提案し、両藩の歩み寄りを図ります。

最初の両藩による下関での会談は、薩摩藩の中心人物である西郷隆盛がドタキャンをしたため、同盟は不可能かと思われました。そこで坂本龍馬、中岡慎太郎、そして長州の小田村伊之助が奔走し、再度会談をとりつけます。そして京都の小松帯刀の屋敷に長州藩の桂小五郎(木戸孝允)が赴く事で、薩長同盟が結ばれます。

この会合では、両藩とも自分の藩のメンツがあり同盟の話をできずにいました。それどころか、長州藩の中心人物の桂は薩摩に対し恨み言を延々と言う始末。御馳走を食べるだけの日が十日も続きます。そこへ様子を見に龍馬が訪れ、まるで同盟の話が出来てない事に驚きます。

龍馬は西郷にこう言いました。
長州藩は自分から言い出せない立場にいるから、薩摩藩が男を見せてやれ
この龍馬の発言によって、西郷は自分が同盟を言い出すことを承知したと言われています。

ちなみにこの時の薩摩藩の出席者は、西郷隆盛ほか小松帯刀、大久保利通、吉井友実、島津伊勢、桂久武、奈良原繁です。長州藩からは桂小五郎、品川弥次郎、三好軍太郎が出向きました。 

討幕の情勢に大きな影響を及ぼしたこの会談の内容は、桂の記憶をもとに六か条にしたためられ、坂本龍馬が立会人として裏書をしたものが、現在も宮内庁に所蔵されています。

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薩長同盟がその後の歴史に与えた影響は?


最後に、薩長同盟がその後の歴史に与えた影響について見ていきましょう。

この同盟の実現によって、長州藩は薩摩藩から近代的な武器を入手する事に成功します。この武器を使って長州藩は第二次長州征伐に勝利、江戸幕府の衰えがハッキリ現れる事となりました。

しかしこの薩長同盟は、江戸幕府の滅亡に直接の影響を与えた出来事ではありません。この同盟はあくまで、長州藩に対する幕府の処分が悪化した場合に薩摩藩は長州藩を支援するといった内容に留まっていました。その後の王政復古の大号令や鳥羽伏見の戦いに即繋がっていくものではないからです。

ただ、この同盟によって対立していた薩摩藩と長州藩の関係が改善されたのも確かです。この2つの藩は1867年に出兵協定を結んでおり、これによって両藩の関係は深まっていく事となります。その後の倒幕運動がこの両藩を中心に行われている事を踏まえると、薩長同盟は直接ではないものの、江戸幕府の滅亡に大きな影響を与えたと言えるのではないでしょうか。

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この記事のまとめ


このページでは薩長同盟を簡単に解説すると共に、同盟締結に携わった中心人物やその後の歴史に与えた影響についてもご紹介しました。

薩長政府とも呼ばれた明治政府の基礎を築いた長州藩と薩摩藩。その両藩が手を結び討幕を成し遂げた裏には、いろんなことがあったんですね。薩長同盟は、坂本龍馬より中岡慎太郎の働きを評価するべきだという声も高いですが、桂が同盟の覚書に裏書を求めたのは龍馬でした。龍馬や中岡が生きていたら、どんなストーリーが隠されていたのかもっと伝わっていたのではないかと思うと少し残念です。

※参照:坂本龍馬の家系図や家紋を解説。子供や子孫はいるのか?