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「維新の三傑」の1人として有名な西郷隆盛
実は3度の結婚をした事でも知られています。

では、彼には子供は何人いたのでしょうか?
子孫の方が今もいらっしゃるのかも気になりますね。

西郷隆盛の子供と子孫の方について、ご紹介します。
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二人目の妻・愛加那との子供、菊次郎と菊草の人生とは?


西郷隆盛は2人目の妻・愛加那との間に2人、そして3人目の妻・糸子との間に3人と、5人の子供に恵まれています。まずは愛加那との間に生まれた菊次郎と菊草についてご紹介します。

西郷隆盛の長男、西郷菊次郎について


西郷の長男、西郷菊次郎は1860年に、西郷が藩命により奄美大島に潜居していた時期に産まれます。その2年後、西郷は鹿児島に戻ることになりますが、後に鹿児島の西郷家に引き取られ育てられました。

菊次郎その後、12才の時にアメリカ留学をする事になります、2年6ヶ月の留学生活を経て帰国し、16才のとき西南戦争の薩軍の一員として参戦しますが、戦いの途中に右足に銃弾を受ける大ケガを負い、膝下を切断しなければいけない状況に…。
その後、負傷兵として政府軍の叔父・西郷従道のもとに投降します。

※参照:西郷従道の略歴や海軍での功績について。西郷隆盛との関係は?


西南戦争で父・隆盛が死去したのちは、奄美大島に戻り母・愛加那と数年間ともに暮らしたのち、23才のときに外務省に入省するため奄美大島から東京に移り、外務省入省後は米国公使館などで勤務しています。留学経験者の菊次郎は新しい時代の有用な人材だったのでしょうね。

そして、日清戦争により日本の領土となった台湾に、1895年から4年半赴任しています。台湾では、宣蘭支庁長を務め、宣蘭市の繁栄のために力を尽くしました。この時期に完成した堤防は、百年を過ぎた今もそのまま残っていて、この大工事を成し遂げた菊次郎への尊敬の念を表した石碑が堤防に立てられています。

また日本に帰国してからは第2代京都市長の職にも就き、約6年間に渡って京都市長を務め、1928年になくなりました。

西郷隆盛の長女、菊草について


西郷が奄美大島から鹿児島に戻る途中、菊草は愛加那のお腹にいる頃でした。

12才頃に奄美大島から鹿児島の西郷本家に引き取られ、1876年、14才のとき、いとこの大山誠之助(大山巌の弟、大山家の三男)と婚約します。大山誠之助は軍人で陸軍少尉でしたが、西郷隆盛が政府の要職を辞したときに、軍人の職を辞して、鹿児島に戻っていました。

1877年、西南戦争が始まると大山誠之助も兄の菊次郎らとともに参戦し、戦いの末に政府軍に投降し、宮城県監獄署に収監されます。その2年後、婚約者の誠之助がようやく釈放され鹿児島に戻り、1880年2月12日二人は結婚。誠之助30才、菊草17才でした。結婚してやっと幸せな生活が始まったのかというと、実はそうでもなかったようで、夫の誠之助は生涯、まともな職に就くこともなく、夫婦の間には四人の子供が生まれますが、夫の借金や家庭内暴力により長く苦労したと伝えられています。

1907年頃、ようやく夫・誠之助と別居できることになり、京都市長を務めていた兄・菊次郎のもとへ身を寄せました。このとき菊草は45才位だったと伝えられていますが、その2年後の1909年9月7日には京都で亡くなっています。
また、奄美大島を離れたあとは母・愛加那と再会することも出来ず、長年苦労した末に若くして亡くなり、兄・菊次郎とは対照的な人生だったのですね。

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三人目の妻・糸子との子供・寅太郎、午次郎、酉三の人生とは?


続いて、三人目の妻、糸子との間に生まれた子供たちを見てみましょう。

西郷隆盛と三人目の妻・糸子が結婚したのは、1865年、西郷37才、糸子21才のときでした。そして二人は1866年に長男の寅太郎、1870年には次男の午次郎、そして1873年には三男の酉三という、3人の息子たちを授かります。

三男・酉三が生まれて間もない1873年11月には、西郷は政府の職を辞して、鹿児島に戻り、政治の世界から離れて、鹿児島で農業を始めます。中央政界への復帰や、ヨーロッパ視察への同行などの誘いもありましたが、西郷の気持が動くことはありませんでした。

1875年10月には家族や親戚たちと共に日当山(ひなたやま)温泉に3週間滞在し、西郷は子供たちと遊んだり、わらじ作りをしたりして、穏やかな時間を過ごしたそうです。この頃、寅太郎は9才、午次郎は5才、酉三は2才で、中央政界で活躍して鹿児島に居なかった父・隆盛と一緒に楽しく過ごした貴重な思い出になったのかもしれません。

1877年2月、西南戦争がおこると西郷は薩軍のリーダーとして参戦することになり、残された家族は鹿児島に上陸した政府軍に住んでいた屋敷を焼かれて、ちいさな農事小屋での避難暮しが始まります。そして、9月24日には西郷が自刃して死去し、幼い子供達は大きな頼れる存在だった父を失うことに…

西南戦争の直後は薩軍のリーダーとしての責任を問われ、名誉を失っていた西郷隆盛でしたが、その後、中央政界で活躍する弟の西郷従道によって鹿児島の西郷屋敷も再建され、子供達も母や親戚とともに、ふたたび屋敷で暮らすようになります。

1885年1月には、18才になった寅太郎がドイツのポツダム陸軍士官学校留学に出発。これは西郷隆盛の名誉回復を願っていた勝海舟等の働きかけによって実現したと伝えられています。寅太郎は1892年には陸軍少尉に任じられ、1902年6月3日に父・隆盛の維新の功により侯爵の位を授かり華族となり、貴族院議員に就任します。父・隆盛が好まなかった爵位を、息子の寅太郎が父の功績により受ける、というのも皮肉なものですよね。

※参照:勝海舟の父親・勝小吉ってどんな人?子供や子孫も気になる!


軍人として生きた寅太郎は、第一次世界大戦中の1914年11月11日に東京俘虜収容所長に就任し、1915年9月7日には習志野俘虜収容所に移り所長を務めています。しかし1919年1月1日にスペイン風邪による肺炎をごじらせて在職中のまま亡くなっています。52年の生涯でした。

寅太郎の没後、75才の母・糸子は次男の午次郎夫妻の家に身を寄せます。午次郎については、詳しいことはよくわかりませんが、糸子を引き取ったとき、午次郎は49才で日本郵船に勤務していて、母・糸子が79才で亡くなるまでの3年間をともに暮らしていたそうです。そして日本郵船退職後は、叔父・西郷従道の所有地だった渋谷・南平台の土地を譲り受け、ゆっくりとした老後を過ごしたようです。

また、三男の酉三も詳しいことは分からないのですが、残念なことに1903年10月21日に、30才の若さで結核で亡くなっています。

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西郷隆盛の子孫は今も鹿児島で活躍中!


「子孫に美田は残さず」という言葉でも有名な西郷隆盛ですが、子孫の方にはどんな人物がいらっしゃるのでしょうか?

まず、愛加那との間に産まれた長男の西郷菊次郎には4人の子供がいました。この系統の中で著名な子孫の方には、陶芸家の西郷隆文さんがおられます。隆文さんは、菊次郎の四男、西郷隆泰氏の息子にあたる方で、鹿児島県日置市で「日置南洲窯」を開き陶芸活動を行っておられます。1993年には日本新工芸展に出品した作品が外務省お買い上げとなり、2011年には「現代の名工」を授章されるといった実績をお持ちの方です。

また、糸子との間に産まれた長男の寅太郎の跡を継いだのは三男の西郷吉之助です。祖父の隆盛と共に大きな体格で知られた吉之助氏は佐藤栄作内閣で法務大臣を努めるも、数多くのスキャンダルを起こし最終的には自民党を離党しています。余談ですが、寅太郎の妻に当たる女性は、競馬ジョッキーの武豊選手の曽祖父の兄弟の娘に当たる方です。

この寅太郎の孫には、鹿児島で(株)開墾舎という会社を経営されている西郷隆夫さんという方もおられます。隆夫さんは現在、隆盛ゆかりの地を子孫と一緒に巡るガイドツアーや、隆盛が実際に食していた薩摩料理「からしぶた」を西郷家の子孫たちで再現して販売するといった斬新な企画を行い、鹿児島の活性化のためにご活躍されています。

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この記事のまとめ


西郷隆盛の子供たち、そして子孫の方々についてご紹介しました。

西郷の5人の子供達は華々しい人生を歩む者もいれば、若くして病死する者など、その生涯は様々だと言えそうです。ただ西郷家の人々に西郷隆盛の精神は伝えられて、現在ご活躍されている子孫の方もその教えを大切にしているというは事は間違いなさそうですね。

なお、以下の記事では西郷隆盛の両親について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:西郷隆盛の若い頃や両親について解説。島津斉彬との関係も!