%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%83%e3%83%88_2016-10-29_10_06_14


大久保利通は、薩摩藩(いまの鹿児島県)出身で幕末から明治初年を代表する政治家であり、西郷隆盛や木戸孝允と並んで「維新三傑」の一人です。

ところがそのわりには、具体的にどのような業績があるのかに関しては、あまり知られていないのではないでしょうか。

このページでは、幕末と明治二つの時代にわけて、大久保利通がどんなことをしたのか、業績とあわせて考えたいと思います。
スポンサードリンク

大久保利通が幕末にした事をまとめてみた


まずは大久保利通が幕末にしたことを解説します。

大久保利通のキャリアは1846年、記録所書役助として薩摩藩に仕えた事にはじまります。しかし1850年に父、大久保利世が薩摩藩主の後継争いに巻き込まれ島流しとなった事を機に、利通も蟄居を命じられ大久保家は生活苦に陥ります。無力では何事もなしえない、利通はこのとき権力に目覚めたのかもしれません。

その3年後には蟄居はとかれ、大久保利通は記録所に復帰。やがて盟友の西郷隆盛と共に誠忠組のリーダー格となり、島津斉彬の死後に藩主となった島津忠義とその父・島津久光のもとで活躍します。特に藩の最高権力者であった久光とは、趣味の碁を通じて懇意になり、最終的には御側役という側近中の側近にまで異例の出世を重ねます。

その後、公武合体を推し進め、朝廷に働きかけ幕府に改革を迫る久光の側には、必ず大久保利通の姿がありました。1863年に薩英戦争が勃発すると、大久保は西洋の力を痛感します。第二次長州征伐では薩摩藩の出兵拒否を取り仕切り、雄藩による政治の合議化を図るため、四侯会議(島津久光、松平春嶽・前福井藩主、山内容堂・前土佐藩主、伊達宗城・前宇和島藩主)を企画・実施しますが、徳川慶喜の妨害により失敗に終わります。

その後の薩摩藩は、倒幕に舵を切ります。大久保利通は長州藩・広島藩に働きかけ、三藩盟約をむすび、盟約書の起草をしたほか、朝廷に働きかけ、倒幕の密勅まで取りつけました。そして1868年に王政復古の大号令を岩倉具視と共に発布し、明治政府の樹立に貢献します。こうした一連の功績が認められ、大久保は新政府の参与に就任しました。

大久保利通が明治時代でした事をまとめてみた


続いて、大久保利通が明治時代でしたことを見てみましょう。

維新後、大久保利通は明治政府の主要メンバーとなり参議、大蔵卿を歴任します。版籍奉還や廃藩置県を推し進めました。

1871年には岩倉使節団の副使として欧米諸国を歴訪します。後の大久保の国家観や政策は、この外遊をベースに形成されたようです。帰国後の大久保は、武力で朝鮮に開国を迫る征韓論が暴発寸前であることや、平和的な国交回復の使節に西郷隆盛が志願していることを知ります。大久保らは、いま外国と武力紛争を起こすことは不可能として征韓論を否定し、西郷の計画をも覆してしまいます。これに反発した西郷らは辞職・帰郷。いわゆる明治6年の政変です。

その後の大久保利通は、内務省を新設し自らそのトップとなって内政に専念。殖産興業政策や学制、地租改正や徴兵令を実施します。こうした大久保の取り組みは少なくない数の批判が集まった一方で、これらの取り組みにより日本の近代化は加速していきます。

1877年には西南戦争で西郷隆盛が敗死します。この年、大久保は第一回内国勧業博覧会を上野公園で開催します。これは日本各地の物品を展示する事で、作り手の間で競争力を高め、国内産業をより充実させようとした大久保の思惑がありました。大久保は翌年に暗殺されてしまいますが、この内国勧業博覧会はその後5回行われました。

スポンサードリンク

大久保利通の業績って何なの?という疑問にお答えします!


ここまででは大久保利通がしたことを解説してきましたが、最後に大久保利通の業績って何なの?というテーマでまとめてみたいと思います。

大久保利通の幕末期における業績は大きく2つに分けられます。1つは薩摩藩を主導したことです。具体的には、薩摩藩を主導して、幕府に改革をせまり成功したこと(文久の改革)、四侯会議の実施、三藩盟約の締結、倒幕の密勅を取得、小御所会議による王政復古の実現といった点が挙げられます。

もう1つは、西郷隆盛を補佐したことです。久光と折り合いが悪く、西郷は島流しになっていた時期がありますが、これを救ったのが大久保利通でした。時に命がけで西郷を守り、支えた利通の行動は、のちの歴史に大きく影響したといえます。

また、明治期の大久保利通の業績には、基本的な政策実現によって日本の近代化を決定付けた点があります。具体的には、版籍奉還や廃藩置県によって幕藩体制からの脱却を図り、内政面では殖産興業や学制、地租改正といった諸政策を推進した事が挙げられます。自らに権力を集める姿勢は批判も少なくありませんでしたが、本人はいたって清廉潔白で、予算が少ない事業には自らの私財を用いてまで行いました、大久保の死後、彼の財産は140円の現金に加え8000円の借金があったと言われています。

また、岩倉使節団の副使として欧米諸国を歴訪後は内務省の設置により中央集権化をめざし、日本の近代化を急ぎます。「富国強兵」をスローガンにして徴兵令を推進した他、佐賀の乱や台湾出兵の収拾にも力を尽くしました。

大久保はプロイセン(ドイツ)をモデルとした国家を創ろうとしたと言われており、今日の日本の官僚制度も大久保の影響を強く受けたシステムになっています。大久保の意思は、プロイセンの影響を強く受けた大日本帝国帝国憲法の制定など、様々な所に見ることが出来ると言ってもいいでしょう。

スポンサードリンク

この記事のまとめ


大久保利通がしたことを幕末・明治に区分して業績とともに見てみました。

西南戦争で西郷隆盛を倒した利通ですが、決して西郷と仲違いしたわけではありません。利通は、最後まで西郷は乱に加わっていないと信じ、西郷が参加していることが分かると直談判のため鹿児島入りを希望しています。
また西郷が城山で自刃したことを知ると我を失い、部屋の中をぐるぐる歩きながら「これで強い日本が生まれる」とつぶやきながら苦しんでいたようです。

1878年、紀尾井坂で暗殺されたとき、利通は西郷から受け取った手紙と自身がしたためた返事を持っていました。西郷の信義に応えるためにも、独裁者とののしられようとも強い日本を築く―その利通の信念は、もっと評価されてもよいのではないかと考えられます。


なお、以下の記事では大久保利通が「維新の三傑」に選ばれた理由について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:維新の三傑の選定理由や坂本龍馬が漏れた原因は?維新の十傑も解説!