%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2016_11_28_15_19 今川義元と言えば、桶狭間の戦いで信長に敗れた武将として知られてますが、実は当時の最先端を行く代表的な武将だったのです。

本当の義元は、一体どんな人だったのでしょうか。

その年表や妻となった女性の解説を交えながら、今川義元について解説していきます。

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今川義元がどんな人だったのかを簡単にご紹介。


まずは今川義元がどんな人だったのか、簡単に見ていきましょう。

今川義元は1519年に、駿河国守護で、戦国大名となった今川氏親の5男として生まれました。母親は氏親の正室で、今川家4代に渡ってその政務を行ってきた事で知られる寿桂尼(じゅけいに)です。もっとも、義元は5男ですので、本来は家督を継ぐ立場にはありませんでした。

そのため義元は栴岳承芳(せんがくしょうほう)と名乗り、僧侶になるための修行をしていましたが、1536年に長兄で家督を継いでいた氏輝、次兄でその後継者と目されていた彦五郎の2人が、なんと同日に死去してしまうのです。

このため今川家では家督争いが勃発します。義元は、兄ながら母親が異なる玄広恵探(げんこうえたん)と家督を争います。家臣を二分する戦いに勝った義元は、今川氏の当主となりました。

当主となった義元は、それまでの今川氏の方針を大きく転換します。それまでの今川氏は、伊豆から相模へ進出した北条氏と連携して、甲斐の武田氏と争っていました。それを、武田氏との連携に転換したのです。義元は、その証として、武田信虎の娘を妻に迎えました。しかし、武田氏と結ぶことは、北条氏との抗争を生むことになりました。

北条氏との抗争は「河東の乱」と呼ばれ、1536年から45年の9年間も続きました。最終的には武田信玄の和睦によって戦いは収まり、1554年には武田家、北条家との間で三国同盟を締結しています。この時、嫡男の氏真に北条氏康の娘である早川殿を嫁がせました。

また、この三国同盟が結ばれる前から、義元は西側の三河国への侵攻を行っており、同じ三河国を狙う尾張の織田家との戦いを繰り返していました。1549年には三河国の領国化に成功し、その後は尾張国への侵攻を狙っていきます。しかし1560年の桶狭間の戦いで織田信長のために敗れ、討死してしまいます。41年間の生涯でした。

今川義元の年表をわかりやすく解説!


ここでは、今川義元の年表をわかりやすい形でご紹介します。


永正16年(1519)
駿河(静岡県)今川氏親の5男として生まれる。

大永3年(1523)頃
善得寺に入り、僧侶の修行をはじめる。

天文5年(1536)
兄氏輝・彦五郎の死去によって今川家の家督を継ぐ。
異母弟の玄広恵探との争いで勝利をおさめる。

天文6年(1537)
武田信虎の娘と結婚する。
北条氏との抗争がはじまる。

天文14年(1545)
武田信玄の仲介によって、北条家と和睦を結ぶ。

天文16年(1547)
三河の吉田城(愛知県豊橋市)を攻め取り、三河侵攻の拠点を手に入れる。

天文22年(1553)
分国法「今川仮名目録追加」を制定し、室町幕府との関係を断ち切る。

天文22年(1554)
武田信玄、北条氏康との間で甲相駿三国同盟を締結する。

永禄3年(1560)
三河から尾張へ侵攻し、桶狭間の戦いで敗れ、戦死する。

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今川義元の生涯は、わずか41年間でした。その統治では分国法の制定や検地、商人の保護の他、武田家と上杉家との間で行われた第二回川中島の戦いの仲介を行うなど、まさに今川家の全盛期を築いた一生だと言えるでしょう。しかし最後に敗れてしまった事で、評価が下がった気がするのは残念でなりません。

今川義元の妻はどのような女性だったのか?


それでは、今川義元の妻はどのような女性だったのでしょうか。

義元の妻は定恵院(じょうけいいん)と呼ばれる人物で、武田信虎の娘、信玄の姉に当たる女性です。1519年に生まれたこの女性は義元と同い年で、1537年に義元に嫁ぎました。この婚姻の背景には、従来の今川家と武田家の抗争に終止符を打つための側面があった事で知られています。また1541年には、その父親にあたる武田信虎が定恵院に会うため駿河を訪れた所、その息子にあたる信玄に追放されたという事件も起こっています。

この二人の間には1538年に嫡男の氏真、そして嶺松院と隆福院という二人の娘が産まれています。このうち嶺松院は三国同盟における婚姻政策の中で、信玄の嫡男、武田義信に嫁ぎました。一方の隆福院は1550年に幼くして亡くなってしまいます。そして定恵院もこれにショックを受けたのは、同じ年に32歳で亡くなってしまいました。

その後、義元は継室として奥殿という女性を妻に迎えたと言われています。この他にも義元には井伊氏や四宮氏といった女性を側室がいた他、葛山綱治という武将の妻が美しいと聞いて手を付け用としたところ拒絶され、この女性は夫と共に自害したという逸話も残っています。

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この記事のまとめ


今川義元がどんな人だったのかを、年表や妻を交えながらご紹介しました。

昨今の再評価によって、今川義元の能力はかなり見直されているかと思います。桶狭間の戦いが起こる前は順調に今川家の領土を拡大しているだけに、その最後は本人でさえも予測は出来なかった事でしょう。

なお、以下の記事では今川家の家系図について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:今川氏真の人生や今川家の家系図を解説。家康との仲は良かった?