%e3%82%b9%e3%82%af%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%83%e3%83%88_2016-12-06_18_01_24 まさに群雄割拠の時代とも言える戦国の世。

のちに徳川幕府を確立させた天下人・徳川家康ですが、その幼少期はとても複雑なものでした。
今回はそんな徳川家康の人質時代にスポットを当ててみたいと思います。

また、母親である於大の方がどのような人物であったのかもあわせてご紹介します。

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青春時代はずっと人質?徳川家康の幼少期について


まずは徳川家康の幼少期がどのようなものだったのか、簡単にご紹介します。

家康は1542年、松平家の当主であった松平広忠の嫡男として岡崎城で産まれました。幼名を竹千代と言います。母親は於大の方という女性だったのですが、家康が3歳の頃、その実家の水野氏が松平家と敵対していた織田家と手を結んだため、広忠は於大の方と離縁する事になります。つまり家康の幼少期は、母親の愛を直接知らずに育った状態だったのです・・・。

更に辛い状況は続きます。当時の松平家は織田家に攻められており、当主の広忠は東の今川家の力を借りるため、6歳になった竹千代を養子に出す事にします。しかしその護送中、家康は織田家に寝返った父の家臣によって誘拐されてしまいます。

誘拐された先はもちろん敵勢の織田家。息子の命が惜しくば降参せよと織田信秀は再三通告しますが、父・広忠は「人質として一度手放したのだから、我が息子であろうが殺したければ殺せばよい」とそれを突き返してしまいます。そうして家康は織田家の菩提寺・万松寺に二年あまり預けられることになりました。

また、この間に後に同盟を結ぶ、織田信長と運命の出会いを果たしたと言われています。

しかし父・広忠が若くして死去したため三河国は完全に今川家のものに…。そんな中義元と戦っていた信秀の長男が、敗戦ののち今川家の人質にされてしまいます。ここで人質交換を申し出た義元の要求を信秀がのむ形で、八歳になっていた竹千代は今川家の人質となり、今度は義元のもとで過ごすことになりました。

結局人質から解放され三河国の岡崎城に戻れたのは、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれたのち十九歳になってからのことでした。

※参照:今川義元ってどんな人?年表や妻をわかりやすく解説!

でも実は贅沢だった?人質時代の家康の暮らしについて


家康の幼少期を見てみると、何だかとても過酷な環境に置かれていた気がしますよね。

ですが、人質とは言え家康は一領主の嫡男。
実際は結構厚い待遇の中で生活していたようです。

織田家の人質時代は九歳離れた信長と仲が良かったようで、遊んでいる最中信長に池にふざけて落とされるなどよくいたずらをされていたという話が残っています。この期間の二人の関係が、その後の同盟にも繋がったとも考えられています。

次に今川家の人質時代ですが、当時の家康がどんな生活をしていたのかが分かる、有名なエピソードを一つご紹介します。

今川家が家康を人質として迎えた時、義元は家臣に「松平家の子にはむごい仕打ちをしろ」と指示します。家臣は粗末な食事を与え、休みなく日々武術と学問に励ませるという返答をしたところ、義元は家臣を叱り「朝から晩まで海の幸や山の幸いっぱいの贅沢な食事を好きなだけさせ、寝たいだけ寝かせてやれ。夏は暑くないように冬も寒くないようにして、武術も学問も嫌がるならさせなくてよい。とにかく好きなことをさせよ」と伝えます。こうすることで自分に好意を抱かせ、扱いやすい武将にするためでした。

でも実際はこの贅沢な暮らしによって、必要以上の贅沢にいい影響はないという考えが生まれ家康がのちにケチと呼ばれる所以になりました。そして松平家はこの時すでに今川家の傘下に入っていたので、今川家で家康を育てたのは実の祖母。その時点でも苦しい人質生活ではなかったことも想像できますね。

ちなみに竹千代時代の家康は1555年に元服し、今川義元の「元」の字を取って”松平元信”と名乗っています。また正室には今川義元の姪である瀬名姫(築山殿)を娶っているため、こうした事から義元が家康に対していろいろと期待もしていたように見えます。

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徳川家康の母親、於大の方とはどんな人だったのか?


ところで、家康の母親である於大の方はどのような女性だったのでしょうか。
その後の家康との関係も含めながらご紹介します。

於大の方の実家は、三河国と織田家が治める尾張国との国境付近にあった水野家です。この水野家の領国は松平家と織田家に挟まれている位置にあり、両者に挟まれ常に厳しい状況でした。実家の生き残りのため、於大の方は松平広忠に嫁ぐのですが、兄である水野信元が織田家に裏切ったため、於大の方は実家に返された…という事は既に解説しました。

その後、於大の方は久松俊勝(ひさまつとしかつ)という武将と再婚し、3男3女の計6人の子供を授かっています。その一方で家康とのやり取りは続けており、桶狭間の戦いの後に家康が独立した際は成長した息子のもとで暮らす事となりました。この時、久松俊勝との間に授かった息子たちも松平性を与えられて、家康の一門衆へ組み入れられています。

その後、於大の方は1602年まで生き、息子が関ヶ原の戦いで勝ち天下人となる様を見届けています。また亡くなる前には後陽成天皇や秀吉の正室であるおね(高台院)と面会している記録もあり、息子の政治を何かと助けていたのかもしれません。

我が子といえども一度離れてしまえば縁を繋ぐことが難しかった時代、しかし於大の方はそんな中夫に離縁されようとも息子とずっと関係を保ち続ける強い母の代表とも言えそうです。

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この記事のまとめ


徳川家康の幼少期や人質時代、そして母親である於大の方についてご紹介しました。

時の天下人・徳川家康の幼少期はそのほとんどが人質生活であったと言っても過言ではありません。わずか二歳ほどで実母とも別れてしまっており、実質父にも見捨てられた形で生き別れてしまっていますのでそこだけ見ると悲惨な子供時代に感じられてしまいます。

しかし人質といえども、当時の家康の生活は、決してつらいものではなくむしろ良い待遇の中で育ったと言えるのではないでしょうか?厳しい制限された環境の中で育っていれば天下人としての成功はなかったかもしれませんね。

なお、以下の記事では家康の正室である築山殿の生涯を解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:瀬名姫(築山殿)の生涯を年表で解説。子供やその性格とは?