映画「海賊とよばれた男」に登場する国岡商店のモデルとなったのは、日本で随一の民族系石油会社である出光興産です。

2016年にはお家騒動が再燃したことでも話題になった出光興産ですが、その歴史はどのようなものだったのでしょうか。

今回は、出光興産の歴史を年表を使ってわかりやすくご紹介します。

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出光興産の歴史をわかりやすくご紹介。


・1911年
出光佐三により、福岡県の門司(現在の北九州市)で創業する。
神戸の資産家、日田重太郎から資金提供を受ける。
当時の名前は「出光商会」だった。

※参照:日田重太郎ってどんな人物?出光佐三との関係は?

・1919年
南満州鉄道に対して、車軸油(しゃじくゆ)を納入する事に成功する。
この車軸油は満洲の冷たい気候でも凍らない優れた商品だった。

・1920年
この頃から台湾、朝鮮へ販路を広げる。
その15年後には中国大陸にも進出した。

・1937年
創設者の出光佐三が高額納税者として貴族院議員になる。

・1940年
現在まで続く、「出光興産株式会社」を設立する。

・1942年
100名程の人員のみで南方での石油配給を始め、成功する。

・1945年
終戦によって行っていた事業と海外の資産が無くなる。
佐三は海外から戻ってきた従業員を1人も解雇しない事を宣言。
愚痴をやめて復興に取り掛かろう」と社内に呼びかける。

戦後の出光興産の歴史について


・1946年
ラジオの修理や農林漁業など、様々な事業に取り組む。

・1947年
石油配給公団の立ち上げにより、出光も石油業を再開する。
対抗勢力の妨害を受けるも、GHQによって業界への復帰が認められた。

・1949年
石油配給公団の廃止により、元売業者に認定される。
メジャーの傘下に入っていない唯一の企業だった。

・1953年
日章丸事件が発生。イランからガソリンや軽油を買い付ける。
イギリスのメジャー相手に勝訴し、多くの日本人を勇気づけた。

・1957年
山口県徳山市に、徳山製油所を建設する。
6年後の1963年には昭和天皇がご視察に訪れた。

・1959年
政府から要請を受け、ソ連石油の輸入に携わる。

・1963年
国による石油の生産調整に反発し、石油連盟を脱退する。

・1971年
石油の自給率を上げる事を目指して、石油開発を開始する。
その後、日本各地の油田の生産をスタートした、

・1973年
中国の大慶原油の輸入に成功。日中関係の向上に貢献する。

・1974年
ロンドンに事務所を解説。
その後もシンガポール、リオデジャネイロに進出した。

創設者・出光佐三死後の出光興産の歴史について


・1981年
創設者、出光佐三が無くなる。
弟の出光計助が社長に就任した。

・1993年
環境保護を謳ったガソリン「ゼアス」を発売する。
97年の長野オリンピックでは公式ガソリンとして扱われた。

・2000年
会長の出光昭介(佐三の長男)氏と社長の出光昭氏(出光計助の次男)が対立。
昭氏の主張が通り、外部資本の導入や株式上場が検討され始める。

・2006年
東証一部に株式上場を果たす。
創業家が経営に関与しない事が明確になった。

・2014年
徳山製油所での原油の精製を停止する。
昭和シェル石油との経営統合に着手した事を公表する。

・2016年
昭和シェル石油との経営統合において昭介氏が異議を唱える。
出光興産はイランとの関係が深く、同国と対立するサウジアラビアに関係が深い昭和シェル石油との統合は適切ではないという理由だった。

この記事のまとめ


今回は、出光興産の歴史を年表を使ってわかりやすくご紹介しました。

2016年には創業家、出光佐三をモデルとした映画「海賊とよばれた男」が公開されると同時に、2000年頃から発生していたお家騒動の影響が今でも残っている事が話題になるなど、出光興産にとっては良くも悪くも世間の話題を集めた1年だった気がします。

その一方で、出光興産の歴史を紐解いていくと、海外メジャーとは一線を画す民族系石油会社としての「誇り」みたいなものを感じます。この企業の歴史、創設者である出光佐三の精神を学ぶ事は、今の日本人には必要な事なのではないかと個人的には思っています。

※参照:出光佐三ってどんな人物?妻や昭和天皇が詠んだ和歌について