1994年に放送された、応仁の乱の時期を描いた大河ドラマ「花の乱」をご存知ですか?
この作品の主人公になったのが、この記事で取り上げる日野富子(ひのとみこ)という女性です。

嫉妬深い、金儲けに熱心、天皇と密通という噂から「日本三大悪女」とまで呼ばれる富子ですが、実際はどんな人物だったのでしょうか。

夫である足利義政との関係や子供も含め、日野富子についてご紹介します。

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日野富子ってどんな人物?


まずは日野富子がどんな人物だったのか、簡単にご紹介します。

日野富子は1440年に京都で産まれました。実家の日野家は藤原氏の系譜をくむ由緒ある家柄であり、また以下のように足利将軍家といくつも縁組を結んでいました。

日野栄子:4代将軍・足利義持の正室
日野宗子:6代将軍・足利義教の正室
日野重子:6代将軍・足利義教の側室
富子:8代将軍・足利義政の正室
日野良子:義政の弟・足利義視の正室
・富子の兄の子供(実名不詳):9代将軍・足利義尚の正室
日野阿子:11代将軍・足利義澄の正室

富子が足利義政に嫁いだのは1455年、16歳の頃でした。富子は嫉妬深い性格だったとされ、最初の子供が夭折した際、義政の乳母(側室とも)が呪いをかけたという疑いをかけ、この女性を流罪にした他、この後に義政の4名の側室を追い出したと言われています。


また、日野富子と言えばお金儲けに精を出した事でも知られています。
応仁の乱の際は東軍の細川勝元、西軍の山名宗全の両方にお金を貸し付け、その結果として現在に換算して70億円もの資産を築いたとも言われてます。

富子は義政が銀閣の名で知られる慈照寺を造園する際は資金援助を全くしなかった一方で、戦乱で焼け落ちた朝廷の御所の修復の際は自分の財産を拠出しています。

こうした富子の行いに対する民衆の評判は悪く、1580年に富子が関所を設置した際、民衆が一揆を起こしてこれを壊した事もありました。


その一方で、将軍の正室としての仕事はきちんと行っている面もあります。
夫・義政が政治への情熱を失い隠居した後は、後述する我が子・義尚の後見を兄である日野勝光と共に担っています。

兄の死後は、事実上の室町幕府の最高権力者として振る舞い、義尚が25歳でなくなった後での後継者の選定などを行いました。

しかし幕府の衰えは進むばかりで、1496年に富子がなくなった後の室町幕府は将軍や細川家の後継者争いがより進展していく事になります。

※参照:室町幕府が京都に置かれた理由とは?仕組みや税制度も解説!

日野富子と足利義政の関係は?


そんな日野富子ですが、夫である足利義政との仲はどうだったのでしょうか。

個人的に、この二人の夫婦仲は当初は悪くは無かったと思っています。富子が義政と結婚したのは1455年。そして2人は1459年から65年まで4名の子供を授かっています。

義政は富子との間に第一子が産まれる1459年までに最低でも4名の側室が居たと言われてますが、それ以降も3名の子供が産まれている事を踏まえると、義政は富子に対して何かしらの尊重する気持ちはあったのではないでしょうか。


しかし1471年頃になると、富子と後土御門天皇がただならぬ関係にある…という噂が流れていた事からも、2人の仲は冷え切っていたと考えられています。

当時の京都は応仁の乱により戦火の真っ只中。戦を避けるため花の御所に逃れてきた後土御門天皇に対して富子が…という感じでした。

実際、後土御門天皇と関係があったのは富子の侍女なのですが、こうした噂が流れるという事は、富子と義政の夫婦仲を示すエピソードだとも言えるでしょう。


また1481年には、義政は富子と別居する形で聖護院の別荘に移ってしまいます。この頃になると富子は夫だけでなく実子の義尚とも対立していたと言われています。家族仲に恵まれず孤独な心境だったのでしょう。

夫婦仲は決して良いとは言えない富子と義政ですが、政治の面では協調した事も。我が子・義尚が25歳の若さでなくなった後は、義政の弟・義視の子供(富子の妹の子供でもある)である足利義材を時期将軍にすべく、義政と協議を行なっています。

悪評高い富子の蓄財ですが、室町幕府の財政を賄う側面もあり、この点から富子は夫の政治を支えていたと考えてもいいでしょう。

この二人の夫婦仲については心の繋がりこそ無かったものの、パブリックな面において富子と義政はどこか繋がっていたのでは?といった事を、個人的には感じてしまいます。

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日野富子の子供はどんな人がいたの?


最後に、日野富子が義政との間に産んだ子供について見てみましょう。

富子と義政の間には、以下の4名の子供がいたと言われています。

・男子(1459)
・光山聖俊(1462-1505)
・女子(1463-1486)
・足利義尚(1465-1489)



このうち足利義尚は1473年に9代将軍に就任するも、実権は義政・富子夫婦が握っており、成長するにつれ義尚と義政、富子の間で意見が分かれる事は珍しくありませんでした。
義尚は幕府の権力を復興すべく、1487年に近江の六角高頼の討伐を開始しますが、次第にやる気を失いその2年後になくなってしまいます。

また、二人の娘である光山聖俊という女性は尼になり、景愛寺や大慈院、宝鏡寺の住持を務めたという記録が残されています。
これ以外にも1人女子が居たようですが、詳細は知られていないようです。


富子や義政には他に子供はいなかったので、二人の跡を継いだのはかつて応仁の乱で対立した足利義視の子供である足利義材(よしき、後の足利義稙)でした。

しかし富子は後にこの人事を後悔し、かわりに義政の弟である足利政知の子供である足利義澄を将軍職に就けています。

明応の政変」と呼ばれるこの将軍の廃立劇は、細川家の家督争いなども絡み合い、後の戦国時代へと繋がっていく事になります。

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この記事のまとめ


このページでは日野富子がどんな人物だったのかを、夫である足利義政との関係や子供も含めご紹介しました。

足利将軍家と深い縁を持つ日野家のお嬢様として産まれた富子。嫉妬深い、金儲けに熱心、天皇と密通…といった悪い噂が目立つ富子ですが、将軍の正室としての仕事は彼女なりに行っていたと思われます。
しかし、彼女の施策の中で時流に合ったものは少なく、むしろ将軍家の跡継ぎをより複雑なものにしてしまったと言わざるを得ません。

こうした点から、北条政子、淀殿と並び「日本三大悪女」に数えられた富子ですが、蓄財については幕府の財政を助けていた面もあり、今後研究が進めば再評価が進む気もします。

以下の記事では、富子がなぜ「悪女」と呼ばれたのか?について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:日本三大悪女とは?北条政子、日野富子、淀殿の性格について!