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今川氏真の正室の早川殿、といわれて、どんな人生を過ごした人なのか、知っている人って少ないんじゃないでしょうか?

今川、武田、北条の三国同盟のために、政略結婚によって北条家から今川家に嫁いだ戦国の姫君・早川殿。でも、政略結婚だったけれど氏真とは仲良し夫婦だったらしい?

このページでは、二人の子供や晩年の様子など、あまり知られていない早川殿のエピソードについて見ていきましょう!
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今川氏真の正室、早川殿はどんな人だったのか?


まずは早川殿がどんな人だったのかを、簡単にご紹介します。

早川殿の本名や、生まれた年は記録には残っていませんが、北条氏康の娘として相模の国に生まれました。戦国時代のこの当時、父・北条氏康は領地を接する駿河の今川家と争いを続けていましたが、このお互いに消耗する争いを止める手だてとして甲斐の武田家、相模の北条家、駿河の今川家の間で三国同盟が成立しこの三国間で政略結婚を行い、縁戚関係を結びます。この時、結婚した3組のカップルのうちの一組が、北条氏康の娘・早川殿と今川義元の子・氏真なのです。

この結婚の当時、お相手の今川氏真は17才だったので、早川殿も同じくらいの年頃だったのではないかと考えられています。けれども、この三国同盟も15年足らずで崩される事に…。1560年に勃発した桶狭間の戦いで、氏真の父・今川義元が織田信長に破れ討ち死にし、今川家は没落の道をたどることになります。
また1568年には、武田信玄が駿河に侵攻。駿河の館にいた早川殿は輿にも乗らず大慌ててで氏真とともに掛川城まで落ちのびます。この当時、早川殿のような姫君が徒歩で遠距離を移動するのはよほどの事で前代未聞の大事件とも言えることでした。

その後、氏真と早川殿夫妻は、妻の父・北条氏康を頼って、相模の小田原へ逃れました。
この時、小田原の早川という土地に住んだことから「早川殿」と呼ばれるようになりました。

でも、ひと安心も束の間、今度は早川殿の父・北条氏康が亡くなり、跡を継いだ北条氏政は今川と敵対する武田信玄と手を結びます。古文書「校訂松平記」によると、このとき、武田信玄が氏真討伐のために、兵を小田原へ派遣したことを知った早川殿は腹を立て、譜代の家臣たちを集めて船で小田原を脱出したと伝えられています。この史実をみると、夫・氏真の命を救うために自らの意思で実家を去るという、行動力と精神力のある女性だったことが伺えますね。

ただ運命の波にのまれるのではなく、今川家も没落し、実家の北条家にも守ってもらえなくなっても夫婦で生きて行く道を切り開こうとしたのでしょうか。

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今川氏真と早川殿のあいだに生まれてた子供たちについて解説!


流転の人生をたどる氏真と早川殿夫妻ですが、その中で子宝に恵まれているのです!
小田原を逃れた夫妻は、以前掛川城で命を助け、逃がしてくれた徳川家康を頼り浜松へ行き、浜松周辺で暮らしながら4男1女の子供をもうけました。

・長男の今川範以(のりもち)

・次男の品川高久
・三男の西尾安信
・四男の澄存
・長女の吉良義定室


このうち長男の今川範以はどの大名家にも仕官しなかった一方、父と共に京都の公家衆と仲が良かった事が伝わっています。元から病弱だったとも言われており、1607年に父に先立ってなくなっています。なお、彼の嫡男の今川直房は徳川家に高家として仕え、明治時代に家系が断絶するまでその血を後世に伝えました。

また次男の品川高久は徳川家康の息子・秀忠の家臣になっています。1598年、高久は徳川秀忠にはじめてお目見えして、「物加波」という馬を賜り、1601年には上野国碓氷郡内に1000石を与えられます。また、今川高久と名乗っていた高久にたいして、徳川秀忠は今川姓は今川家を継ぐ長男だけが継ぐべき名字であるとして次男の高久に、屋敷のあった江戸品川の地名から品川姓に改めさせ、品川高久となっています。この品川家は高久の没後は長男の高如が継ぎ、徳川幕府の高家旗本として代々仕えました。

3男の西尾安信は伝十郎という別名があり、1613年に没した事が分かっています。4男の澄存は僧侶として熊野三山の奉行を務めました。また長女は吉良義定に嫁ぎ、その血筋は米沢藩上杉家などに伝わっています。

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早川殿はどんな晩年を過ごしたのか?墓所はどこ?


北条家の姫君として育ち、政略結婚で今川家に嫁いだものの嫁ぎ先が没落。逃避行、流転の後に浜松の地で子供を生み育てる…というしっかり者で体も丈夫でなければ生き抜けないような人生を歩んだ早川殿ですが、その晩年はどのようなものだったのでしょう?

残念ながら、その様子を伝える史料は残っていませんが、夫・今川氏真とともに過ごしていたとして、氏真の足跡をたどると1590年に京都に移り住んだのち、1607年11月には長男・範以を亡くしています。そして1612年には京都を離れ、すでに徳川秀忠に仕えていた次男・品川高久の江戸品川の屋敷に移りました。

亡くなったのは、その翌年の1613年2月15日で、江戸品川の屋敷で、氏真に看取られて最期を迎えたようです。はじまりは政略結婚であっても、たくさんの苦難を夫婦で切り抜け、最後まで離縁しなかったというのは珍しいケースかもしれませんね。

早川殿は現在、夫・氏真と共に、東京都杉並区にある観泉寺(かんせんじ)で静かに眠っています。この墓は4男で僧侶として活動していた澄存によって建立され、江戸時代における今川家の歴代当主の墓所としても知られています。

今回のまとめ


このページでは今川氏真の正室、早川殿がどんな人だったのかを、その子供たちや晩年を含めてご紹介しました。

早川殿は北条家の姫君として、政略結婚により今川氏真に嫁ぎますが、今川家が没落して以降も夫と離縁することなく、自ら夫婦共に生き延びられる安住の地を求めて行動し、もうけた4男1女の子供たちを養育してその人生を全うしました。

早川殿の生涯を見ていくと、日本史の大海の中には史料にはあまり残っていない様々な人生や、波乱のドラマがあるんだな〜と改めて実感させられますね。

なお、以下の記事では夫の今川氏真や今川家の家系図について解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:今川氏真の人生や今川家の家系図を解説。家康との仲は良かった?