%e8%b2%bc%e3%82%8a%e4%bb%98%e3%81%91%e3%81%9f%e7%94%bb%e5%83%8f_2017_01_03_13_10 西南戦争で西郷隆盛が最後を迎える時、この場に立ち合い、西郷の解釈を努めたのが、今回ご紹介する別府晋介(べっぷしんすけ)という人物です。西郷の腹心として、彼から大いに信頼された別府晋介とは、一体どのような人物だったのでしょうか。

西南戦争や陸軍軍人時代の動向も含めて詳しくご紹介します。

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別府晋介とはどのような人物だったのか


まずは別府晋介がどんな人物だったのか、簡単にご紹介します。

別府晋介は1847年に、薩摩藩士である別府十郎の次男として産まれました。同じ薩摩藩出身で、西郷隆盛を尊敬していた事でも共通点がある桐野利秋はいとこに当たり、この2人は実の兄弟以上に中が良かったと言われています。

別府が歴史の表舞台に立つのは戊辰戦争の時期からです。白河城攻防戦や会津藩との奮戦が知られており、この功績から鹿児島に置かれた常備隊の小隊長に任命されました。

また、別府晋介は西郷隆盛を厚く尊敬していた事でも知られています。1871年に西郷が上京した際にも同行しており、翌年には西郷の命令によって朝鮮半島へ赴いて視察を行っています。こうした事から、別府は西郷の腹心として仕事をしていたのだと思われます。

しかし1873年、西郷が征韓論争で敗北して下野すると、別府は桐野利秋と共に政府の職を辞し、故郷である鹿児島へ帰ってしまいます。その後の別府は私学校の創設に尽力して若者の育成に努めており、1875年には西郷の推薦によって加治木郷外四郷の区長になりました。

1877年の西南戦争でも独立大隊の隊長として奮戦した別府。敗戦が決定的となった9月24日、城山の総攻撃で負傷した西郷の介錯を務めた後に自刃。31歳という若さでした。この日、死を覚悟した別府は自分の側を離れようとしない部下に「早く逃げろ」と叱った話が伝えられています。また、軍人として明治政府に出仕していた時には、自身の俸給を部下に分け与えたという逸話からも、別府の人柄は公平無私であった事が伺えます。

※参照:桐野利秋とは?西郷隆盛との関係は?妻や子供はいたの?

陸軍軍人時代の別府晋介の動向について


明治時代になると、別府晋介は陸軍軍人としてのキャリアを歩む事になります。
この時期の彼の動向について見ていきましょう。

1871年、西郷隆盛が明治政府の改革の為に上京した時、別府晋介は西郷に付き従って天皇を警護する御親兵に編入される事となります。翌年に御親兵が近衛に改称されると、別府晋介はこれに伴い近衛陸軍大尉に任ぜられる事となりました。余談ですが、別府が編入された御親兵は、1873年に徴兵令が施行されるまでは近代日本における最初の国軍といえるものでした。

1872年には、別府は西郷から朝鮮半島や満州を探る事を命じられています。このため別府は、外見を朝鮮人に見えるように変装し、朝鮮半島を2ヶ月間見て回る事となりました。その後、日本に帰国した別府は、「自分に2〜3の小隊を与えてくれれば簡単に征服してみすっど」という発言を、いとこの桐野利秋の元を訪れた時に述べたという記録が『西南記伝』という資料に残されています。その後、別府は陸軍少佐に任命されています。

この時、政府内では西郷を朝鮮に派遣して開国を促そうとする征韓論が議題に挙がっていました。征韓論は現在、朝鮮への出兵ではなく朝鮮へ開国を促すか否かという事が目的だったと言われてますが、別府自身は出兵する事を考えていたのかもしれません。しかし、この征韓論争において西郷は敗北し、明治政府から下野する事になります。これを聞いた別府も陸軍少佐を辞職し、鹿児島へ帰ってしまいました。

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西南戦争における別府晋介の動向について


最後に、西南戦争における別府晋介の動向もあわせてご紹介します。

西南戦争の開戦が確定すると、別府晋介は自身が区長を務めていた加治木地区などで兵を募り、集まった兵を集めて独立大隊を組織。その隊長となって北上します。そして2月20日、別府の隊が熊本鎮台による偵察部隊と遭遇した事を機に、西南戦争が本格的に始まる事となります。

その後、別府は篠原国幹や桐野利秋と共に熊本城を攻撃。篠原や村田新八らと共に背面攻撃を担当します。しかし薩軍は、翌月の田原坂の戦いで多くの兵を失ってしまったため、別府は桐野の指示によって鹿児島へ戻り兵の補強を行い、1500名を率いて熊本の薩軍と合流を図ります。そして4月3日、別府は八代の官軍の退路を断とうと攻めますが、萩原堤の戦いで敗れ、足に重傷を負い人吉に退くことになりました。

別府は、温泉療養をしながら鹿児島を確保するために戦かったものの、戦果をあげられず宮崎に退きます。8月16日の西郷による解軍の令を受け降伏する者も出ますが、別府ら精鋭1000名は残り、8月17日、西郷に従って鹿児島入りします。この時の別府は足の怪我が癒えず歩けないため、山駕籠で移動したそうです。

その後も城山に陣を構えて死闘を続けますが、ついに9月24日、銃弾を足に受け動けなくなった西郷が切腹を覚悟すると、別府晋介は駕籠から降りて御免なったもんし(お許しください)と叫びながら西郷の介錯をしました。その後、自身も岩崎谷で自決しました。

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この記事のまとめ


このページでは別府晋介がどのような人物だったのかを、陸軍軍人としての時期や西南戦争における動向と共にご紹介しました。

豪気で潔く、西郷隆盛を尊敬し続けた別府晋介。
陸軍軍人時代や西南戦争の動向からも、彼の人柄がよく分かりますね。

余談ですが、テレビ東京の番組『開運! 何でも鑑定団』で、北京五輪の金メダリストである石井慧さんの家に伝わる手紙が、西郷隆盛の自筆と認定され200万円の値が付いた事があります。その手紙は、西郷が別府晋介に「霧島温泉で狩猟しよう」と誘う内容でした。これを見ていた私は、西郷自身も別府の事をとても可愛がっていたんだなと改めて感じた事があります。

なお、以下の記事では別府晋介を含めた西南戦争の中心人物を解説しているので、興味があれば一度ご覧になってみて下さいね。

※参照:西南戦争を簡単に解説。中心人物や行われた場所は?