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浅井長政と言えば、信長の妹であるお市の方の夫として知られる人物です。その三人の娘も有名ですが、長政本人の人物像が語られる事は殆どないですよね。

長政本人は、一体どのような武将だったのでしょうか。そこで今回は、浅井長政の人物像やその子孫、そして長政や浅井家の家紋についてご紹介します。

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浅井長政の人物像は信義を重んじる武将だった!


浅井長政の人物像は、一体どのようなものだったのでしょうか。

長政は武勇に優れた武将だったと言われています。
1560年、わずか15歳で浅井軍1万1千を率い、当時浅井家が従属していた六角軍2万5千に対して勝利したと言われています。半分にも満たない軍勢を率いて仇敵を破ったこの若武者に、浅井家の家臣はすっかり心酔したと言われています。

また、長政の身長は180cmを越えていたと言われてますが、妻として迎えた信長の妹、お市の方も身長168㎝と、この二人は今でもかなりの高身長夫婦でした。また、この縁組は政略結婚としての意味合いが強かったものの、夫婦関係は良好だったと言われています。長政は優しく愛妻家で、信長と対立してからも二人の絆が途切れる事はありませんでした。

また長政は、信義を重んじる武将でした。信長との同盟締結に反対する重臣から、信長の暗殺を進言された時も、「信義に反する」と応じなかったといいます。さらに父である久政を1560年に追放した後も粗略に扱うことなく厚遇したのも、義理を大切にする長政の一面を現しています(その一方で、久政の影響力を完全に排除出来なかった一面もありました)

この一面は、信長との同盟を破棄する際もよく現れています。織田家と浅井家の同盟には、浅井家が長年盟約を結んでいた朝倉家を織田家が攻撃しないという一文が盛り込まれていました。
しかし信長はこの約束を反故にし、朝倉義景を攻撃します。朝倉家と織田家との関係を考えた長政は、最終的には古い付き合いである朝倉家を優先し、信長を裏切る事になるのです。

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浅井長政の子孫はどのような形で現在も残っているのか?


しかし、最終的には長政は信長に攻め滅ぼされ、わずか29歳でその生涯を閉じました。
それでは、長政の子供や子孫はその後どうなったのでしょうか。

まず、長政の嫡子である万福丸は殺されていますが、次男である万寿丸は出家させられたと言われています。これによって長政の嫡流は耐えた事になります。

また、お市の方との間に生まれた茶々・初・江の三姉妹ですが、長女の茶々は後の天下人となる豊臣秀吉に嫁ぎ、その跡継ぎとなった秀頼を産みました。大坂の陣によって茶々は秀頼と共に自害したため、この血統は正式には途絶えた事になります。また、次女の初は長政の姉の子にあたる京極高次の正室として迎えられますが、子宝に恵まれることはありませんでした。

長政の子孫を残したのは三女の江でした。彼女は秀吉の一族である豊臣秀勝に嫁ぎ、豊臣完子という娘を授かります。この完子は後に摂関家である九条家に嫁ぎ、この血統が大正天皇の皇后・貞明皇后へと繋がっていくのです。つまり現在の皇室にあたる方々は、長政の血を引く子孫と言えない事もないのです。

また、一説には長政には側室との間に浅井井頼(いより)という男子がいたと言われています。この人物は信長の追っ手から生き延び、豊臣家や増田家、生駒家の家臣を経て大坂の陣に従軍。この戦いを生き延びて姉の初の嫁ぎ先である京極家の家臣となり、その子孫は京極家が移封された丸亀藩の藩士として生き延びたとも言われています。
また、この浅井井頼は「真田十勇士」の1人である根津甚八のモデルとなっている事でも知られる他、大坂夏の陣で戦死したという説もあり、実際どのような人物だったのかは謎が多い側面もあります。

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浅井長政が使用した家紋とは?浅井家の家紋を3つ紹介!


最後に、浅井長政が使用した浅井家の家紋についてご紹介します。


まず、こちらの「三つ盛亀甲に花菱」は、長政の肖像画に描かれている家紋です。

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長政の肖像画ですが、娘の「淀殿」が父の追善供養に描かせたものと言われており、死後それほど経っていないため長政の家紋とみてよいと思われます。しかし、浅井家の家紋は祖父・亮政、父・久政が異なった家紋を用いていた形跡があります。
そしてこの亀甲紋ですが、平安期以降流行し、南北朝時代には武家の紋として定着していたとともに、出雲大社の紋として使われている事でも知られています。出雲大社は京から見て北の鎮守・「玄武(≒亀)」に相当する神社。長政は北の守り・玄武に彼の武運を願ったのでしょう。


先ほどものべましたが、浅井氏にはあとふたつ家紋がみられます。
祖父である浅井亮政が使った「井桁紋」がこちら。

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彼の木造には「井桁紋」がみられます。浅井の「井」の字をかたどったもので、後に淀殿が父の菩提を弔うために建立した京都の養源寺に安置されている位牌にはこちらの紋があることから、こちらが本来の浅井氏の家紋であるといわれたりします。戦国大名化する以前の浅井氏の紋とも言われます。


一方、長政の父、浅井久政の肖像画には「違い扇」の紋が描かれています。

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当時の扇は「神を仰ぐ」といった意味合いがあり、扇を飾る事は縁起が良いと言われていました。そのため、全軍を率いていた大将の中には、扇を持つ事で験を担いで味方の勝利を引き寄せようとしたと言われています。こうした扇をモチーフとした家紋は浅井家の他、佐竹家や立花家、浅野家などが使用していた事でも知られています。

※参照:立花宗茂の関ヶ原の戦いでの動向は?弟や子孫についても解説

この記事のまとめ


今回は浅井長政の人物像やその子孫、浅井家の家紋などをご紹介しました。

浅井長政は「織田信長に滅ぼされた武将」というイメージが強いかもしれません。しかし、その血を受け継いだ娘たち、そして孫たちは強かに乱世を生き、ある者は華と散り、ある者は今に連なる血脈を作りました。

「もしも長政が信長と対立しなかったなら…」という「if」が歴史には禁物としても、いまだに語られるのは、長政に不思議な魅力を感じる方が少なくないからなのでしょう。