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幕末モノ、特に薩摩藩を中心にこの時代を描く小説やドラマには欠かせない有馬新七。名前は思い出せなくても、大河ドラマ「翔ぶが如く」では内藤剛志さんが、「篤姫」では的場浩司さんが演じた人物として、記憶にある方もいると思います。

この有馬新七とは、どのような人物だったのでしょうか。

ここでは、寺田屋事件や島津久光との関係とあわせて、有馬新七がどんな人だったのかについてまとめてみたいと思います。
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有馬新七ってどんな人?わかりやすくまとめてみた


まずは有馬新七がどんな人だったのかを、簡単にご紹介します。

有馬新七は1825年に、薩摩国(いまの鹿児島県)伊集院郷の郷士・坂本四郎兵衛の子として生まれます。その後、父が城下士である有馬家の養子となったため新七も有馬姓を名乗ります。

新七は学問に秀でており、14歳のとき幕末の尊王攘夷運動に大きな影響をもたらした大ベストセラー『靖献遺言』(せいけんいげん)を研究し、19歳で江戸に留学します。その後は、薩摩藩邸学問所の教授や藩校である造士館訓導師を歴任すると共に、多くの志士たちと交際します。桜田門外の変にも加わるはずでしたが、藩内手続きが難航し参加が叶いませんでした。

1860年になると、新七は出生の地である伊集院郷石谷村の統治を行うことになりました。彼は村内の刑法を定め、郷士の五人組制を実施するなど村内政治をよく掌握しています。一方で、尊皇攘夷活動も続けており、過激的な主張を続けていました。
その2年後、薩摩藩の国父・島津久光が率兵入京する際には、一気に倒幕の兵をおこすべきとしてクーデターを計画します。しかし、同士と結集していた寺田屋にて、久光から暴発阻止を命じられた薩摩藩士らと斬り合いになった末に命を落とします。38歳という若さでした。

※参照:薩摩藩の領地や人口はどれ位?島津家の家紋についても解説!

有馬新七が関わった、寺田屋事件についてわかりやすく解説!


有馬新七が命を落としたこの事件を「寺田屋事件」と呼びます。
坂本龍馬が命を落とした事件と同じ名前なのでややこしいですね。

ここでは、有馬新七が関わった寺田屋事件についてもう少し詳しく見ていきたいと思います。

1862年、薩摩藩の最強権力者の地位にあった島津久光は一千の兵を率いて上洛し、朝廷に幕政改革をせまるよう働きかけます。これは後に、いわゆる文久の改革という形で結実するのですが、影響はそれだけにとどまりませんでした。

安政の大獄からの反動で、京・大坂には過激な尊皇攘夷思想が席巻していました。久光上洛の報に、いよいよ武力倒幕の時節到来かと志士たちは湧き上がります。しかし、そうではないと分かると、こんどは何としても久光を挙兵させようと画策します。その中心が久留米藩士・真木和泉や但馬の医者の子・田中河内介、そして有馬新七ら薩摩藩士でした。

彼らの計画は、関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義を暗殺し、その首を久光に献じて決起をせまるというものでした。決行を前に、彼らは伏見の船宿・寺田屋に集結します。

そこへ久光の命を受けた薩摩藩の討手が現れ、武装解除と出頭を命じます。協議は決裂、壮絶な同士討ちがはじまります。有馬新七は討手の一人道島五郎兵衛を壁に押し付け、同士の橋口吉之丞に「おい(俺)ごと刺せ!」と命じます。橋口は、とっさに二人を串刺し、有馬新七は道島もろとも絶命した…というのが、寺田屋事件の一連の流れになります。

寺田屋事件を一言で言うと、過激な尊皇攘夷思想を持つ有馬新七らのグループと、公武合体を推し進め幕藩体制の維持を念頭に置く久光の意見の相違によって起こった出来事だと言えるでしょう。

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有馬新七と島津久光の関係について解説。両者の主張の違いは?


この時代、島津久光は藩主の父として薩摩藩の実権を握っていました。

一方の有馬新七は、藩校の先生です。
いずれも当時の教養として尊皇攘夷論をベースにもっています。

にもかかわらず、なぜ寺田屋事件は起きたのでしょうか。

そもそも島津久光は、兄で前藩主の斉彬の遺志を継ぐ形で、朝廷を動かすことで幕政改革を迫る方針でした。幕藩体制の中で支配層に位置する久光としては、幕府を真っ向から否定などしません。現実路線、いわゆる公武合体を目指します。
反対に有馬新七ら過激派志士は、もっと極端な尊皇攘夷、つまり政を朝廷の天皇に取り戻し、幕府は倒すべしとの考え方でした。尊王とは天皇ですから、突き詰めれば藩士も将軍もおなじ天皇の臣下なわけです。その将軍を頂点とする幕府がアメリカとの条約を天皇の許しもなく(無勅)調印したから許せない、となるわけです。

久光に視点を戻すと、この上洛はいわば外交のデビュー戦でした。開明派として鳴らした兄の島津斉彬の名こそ知られていましたが、藩主ですらない久光はまだ無名といってよい状態です。
意気揚々と上洛した久光でしたが、朝廷からまず命じられたのは、薩摩藩の過激派尊皇攘夷志士を何とかしろ、という事でした。秩序主義で頑固者の久光の性格からして、腹立たしかったに違いありません。当初は説得で事を納めようとした久光ですが、同時に粛清もやむ無し、という事が脳裏に浮かんだことでしょう。

尊王攘夷というベースを共有していながら、両者の立場・思惑はまったく違ってしまっていたといえます。

※参照:島津久光ってどんな人?西郷隆盛との関係や子孫について!

この記事のまとめ


このページでは有馬新七がどんな人だったのかを、寺田屋事件や島津久光との関わりも交えながらご紹介しました。

博識で、村の統治者としても器量を発揮した有馬新七ですが、同時に過激な尊王攘夷派でもありました。一方でその主君である島津久光は公武合体を推し進める事で幕藩体制の維持を目指しており、両者の思惑の違いが寺田屋事件を引き起こしたと言ってもいいでしょう。

有馬新七は幕末という歴史の動乱に呑み込まれ、その命を落とします。
しかし、この後、歴史は明治維新へむけ大きく旋回していきます。

有馬新七の死がその動力源となった…」そう考えることも出来るでしょう。

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